2013年02月09日

芸術と政治、問われる問題とは?

 2013年初芝居は、モノレールに乗って天王洲アイルの銀河劇場で公演中の「テイキング・サイド」でした。

 高名な指揮者、フルトヴェングラーがナチス・ヒトラーに気に入られ、その結果、戦後に「ナチス協力者」の疑いをかけられ法廷に立たされた史実をもとに、その前に予備審問があったと言う架空の設定での物語。

 この予備審問を行うのは米軍少佐(筧利夫)、彼は権威などくそくらえ、クラッシックになんの関心もなく、高名な指揮者も「バンドマスター」と同列。ともかく、その審問に呼び出されたフルトヴェングラー(平幹二朗)は、最初、芸術は崇高、人々に慰めを与えるものとして揺るぎない自信をもっていたが・・・・、徐々に、少佐の無礼極まりない審問から見えてくるおのれの姿にプライドはずたずたに・・・・。
 
 後半、崇高なコンダクターではない裏の顔を暴かれていき、時代に翻弄されるひとりの人間として、潔白とは言い難いかも・・・・となっていくけれど・・・。
 その内面を無遠慮に暴く米軍少佐の筧さんも、自信たっぷりのコンダクターから徐々にただの人間へと落ちていくフルトヴェングラーの平さんも、まさに適役。

 それにしても、この芝居を見る観客はある意味、この審問の裁判員のような気分になった。芸術家にとってプライベートがどうあれ、結局、最終評価はその作品、その公演、その成果ではないでしょうか?どれほど、品行方正でも退屈でどうにもならない作品は問題外。後世に残るものではない。
 しかし、同時に、「政治と芸術」を無関係と思っていたフルトヴェングラーが後々気づいた、これを無関係にはできない、結局できるだけ避けようとしても、後々関連してくるという・・・・苦い思い。

 今も同じ思いがあるのではないか?いえ、これからもっとこう言う煩悶が広がるかもしれないと・・・考えさせられることばかり。

 というわけで、いろいろなメッセージがたっぷり詰まっていて、とても興味深い芝居でした。筧さんと平さんの言葉の応酬がすごくて・・・、こう言う芝居、大いに楽しめました。
 そうそう、プライベートまで暴かれたマエストロのことを、審問に同席する若いユダヤ人将校が『堕落した聖職者』と評します。彼は幼い頃にフルトヴェングラーの演奏に感激したという音楽愛好家ですが、その意味するところは「堕落しても、それでも聖職者であることは人々に神の慈しみを伝える存在』・・・と。なんか、凄く分かる表現だなぁ・・・。つまり、評価は単純ではない・・・、ということでしょう。
 よくある芸能人やら政治家やらのスキャンダルもそれだけで判断するのではなく、その仕事、その存在価値まで問うとしたら、まあ、評価は単純ではないってことかなぁ・・・なんて・・・ふと思ったりもしました。

 というわけで、この芝居は、あれこれと考え込むことの多い歯ごたえ充分の作品でした。だから、とうてい簡単に分かったなんて言えるものではないですし、そもそも一般人などに問われることではないかもしれないけれど、・・・でも、政治について抜かってはならぬ・・・、気づいたときは手遅れとならぬよう・・常に自分の考えを精査する必要を感じたりもした。時代と個人を問う作品・・・、あらためて、フルトヴェングラーの指揮する「運命」を聞きたくなりました。
 今更気づいたことなのですが、原作者ロナルド・ハーウッドは「戦場のピアニスト」や「ドレッサー」の作家であり、一昨年見た「コラボレーション」も彼の作品と知りました。なるほど、ナチス時代の芸術家の生き方を描きたいと思っている作家さんなんですね。

 ただ純粋に芸術だけを追求したいのに、現実が芸術家にさまざまな波乱を引き起こす。「コラボレーション」はリヒャルト・シュトラウスとシュテファン.ツヴァイクがふたりでオペラ作品を作り上げようと意気投合するが、ツヴァイクがユダヤ人であることがナチスの台頭によって暗い影を広げて行く・・・。
 
 時代に翻弄される人間・・・・まさにドラマチックな芝居が、しかし、今、様々な問いかけを投げかけて来るように思いました。
 「ドレッサー」もかつて、平幹二朗さんと西村雅彦さんの共演で見ていたことも思い出しました。
posted by norarikurari at 20:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 芝居 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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